昭和56年8月4日 朝の御理解   入力者松本正宏


 御理解第九十二節 「神は一体じゃによって、此方の広前に参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」

 これは、教会を持っておる者の上に下さったご理解だと思いますね。信者が助かるも助からないも、また、お参りの多い少ないも結局その守守の力による事だという。力。先だって、みえられました、大渕先生かね、講師の先生が言うておられましたが、丁度ここの夏期信行の終わりの日でもありましたし、あの熱烈な御祈念ぶりやら、また、沢山のお話を頂く人たちがありましたが、九州中をずっと、本部指令のことですから回っておられるのです。どこにもここにも行った。それに多いところで、二十名か三十名。少ないところは五六名。というようなところもあったというように、教会歴というものは長い。長くても信者が少ないとか助からないとか。そういう意味で合楽の場合はまあ大変優れておるという事になるのです。それでまあ、合楽で優れておるという事はどこなんだろう。私にどんどん人を助けれる力があるという訳でもないし。別に、いうなら馬鹿のごたる男ですから、対して守守の力とはいえないのですけれども、ここでの一番の取り得というか、ここで、これを頂かなければというのは、ご理解だと思うのですね。ご理解だけは教祖の神様の信心のいうなら今まで触れられなかった深さとか広さ。そして、合楽理念が誕生してから此の方というのはもうお徳を頂く手立て、しかも、御神徳を頂くといったような事は大変な事だという風に思いこんでおった私共もです、合楽理念に基づけばその気になれば誰でもが受けることが出来るというような私は説き方がしてある。
 教えてある。その事だと思うですね。昨日、梅山という先生が親子三人で修行をしております。で、昨日ここでお届けに出て参りましたのに、あちらの家内が、非常に色々神様からお知らせを頂きます。そのお知らせの中に、栄子は耳納山を越えたと頂いたそうです。栄子というのが小学校一年生で、こちらに転校して参ります。今、ここの、大橋小学校に行っているのです。一年生。女の子。来てからすぐにはまず第一に自分たちの部屋にテレビがない、あれがない、というのでまあ、言いよった。親たちもそれにやっぱ、テレビをつけてやろうかというような気持ちにもなったのだけれども、ね。
 修行生の先生方にテレビがあるようなことでは修行が出来んぞと、ね、ここには、食堂にも大きなテレビが据えてあるし、子供部屋にもテレビがあるのだと。テレビが見たいときには子供部屋に行って一緒に、ここの子供と一緒に勉強が出来るようにしてありますから、そこでいいのじゃないのかね、と親が色々と言うて聞かせた。今までの生活から教会の生活に入ってにきたから色々とまあ、かってが違いましょうけれども、まあ色々と親が言うて聞かせた。中々頭のいい子ですから分かりが良い。それでそういう事は、全然言わなくなった。ね。栄子は耳納山を超えたという事は、そういう事だと私は思いました。耳納とは耳に納めると書いてあるでしょうが。親たちの方がぐずぐずしておる。この頃からその家内が頂きました、あの、良方端と言ったような、良方極端、だからね、両というのは良というのは良しという字ですか、方というのはかたという字。端というのは極端の端。いうならば極端から極端。それこそ、茨の道を歩くのもね、和楽の道を歩くのも、自分の心一つなのだよというご理解でした。物の頂き方一つでは、本当に信心頂いておるおかげでとありがたく頂いて行けれるのを、自分の感情を出したり自分がそれを普通の考え方で受けて行ったらとにかく合楽で修行をしとるその事すらも、私は茨の道だとこう思う。でそういうお知らせを頂いておるのです。ところがやっぱり色々。
 先だってから、親戚の方が尋ねてきた。もう、まあ、自分があちらの方におります時分にまあいうなら大変いじめられた人であった。その人がある難儀な事でやってきた。そういう事から、もうそれこそ私は昨日ね、昨日のご理解を頂いて、その、丁度お参りをして見えておった、今朝も参っておられるでしょうが、吉田さんというて、大城から参って来る方があります。もう親先生、昨日の事ですよ、今朝のご理解を頂いて、もう驚き恐れ入りましたと。丁度まあ時々お参りをしておる時もうそれこそ、濡れ衣を着せられるようなとんでもないことを言われて、腹が立って腹がたってしようがないから、合楽におかげを頂いておる。おかげを頂いて親先生に御届けをさせて頂いたら、御神米にお書き下げを頂いた。そのお書き下げにこういう、まあ句でしょう。「腹たちを全て許してなすの花」「腹たちを全て許してなすの花」どうしても腹立ちをするなという事は分かるのですけれども、ナスの花という意味がわからなかったというのです。
 ね。昨日のご理解を頂きまして、昨日はナスに関わる人ばっかりでした。合楽の信心、ご理解が生きたご理解だという事が分かりますね。すぐその後に中村好子さんの息子達夫婦がこちらの、今、上方の方へ行っております。帰りがけにお礼に出てみえて、その、まあ、若い嫁さんの息子夫婦に、私がこのことをね、昨日の朝のご理解を頂いて、吉田さんが頂いておった句というのが私が呼んで聞かせた。今日はね、とにかく親の意見となすびの花は千に一つの無駄もないというが、その千に一つの仇もないという事のご理解を今日のご理解に頂いておるのだよと。そしてその十年前に、頂いておって、頂いてそのお書き下げを頂いておるから、こうやって、貼って毎日見ておるけれどもその、なすの花、腹を立ててはならん、腹を立ててはならんと言ったところは分かったけれどもね、その腹を立てん修行がね、いうなら、ナスの花に繋がるという事が分からなかった。それをたまたま昨日の朝のご理解になすの花の意味が分かってあり難いと言うのです。
 ね。いわゆるその話をしたら、中村さんはら僕はそのお母さんが、少しばかり作っておるところに、ナス畑を作っておるち。そこで、今朝からナスをちぎってきて、そしたらなすのご理解を頂いて、本当に僕達夫婦が頂かんならんというてから、帰った。丁度金好青年が送ってきた。持ってきたら、ナスが小さいのが乗っておる絵が表紙についておる。というようにね、まあいうならば合楽でご理解というのは、私の頭脳から出るのではない。全く、まあ、天地に繋がる神様の叡智によるところのお話であるというところを皆さんが知っとかなければならんです。でないと耳に納められんです。知っちゃおるけれども、収めておらん証拠に実行が出来んじゃない。ね。聞きてだけではいかんのです。収めておかなければ。私は今日のご理解から言うとです、本当に合楽教会、教会長である私に、という人間は取り得もないのだけれども、合楽で頂くご理解だけは、これは絶対のものだという事なんです。ね。だからご理解を頂くともうこれ以上の苦労はなかろうという苦労の中にあってもありがたいという答えが出てくるのです。
 必ず。昨日私ある方の大変難儀な問題をお届けさせてもらいよったら、あの、久留米の昔の連隊着ちいうのがあった。連隊着よる。あれはもう何回も戦争に出ておりますから、弾が当たって、もうあの、方のところはね、ちぎれて亡くなってしまっておる。だからあの、何というですか、旗の旗の竿のところだけしか残っていない。ね。それがいうならば値打ちであったというのです。そうでしょうが。ね。だから信心も人の真似の出来んくらいな修行をさせてもろうて苦労をさせてもろうてそこを生き抜いてお徳を受ける力を受けるという事が過去に、こういう修行もさせてもらった、こういう時にはこういうおかげを頂いたという実験実証を沢山持っておるほどの値打ちなんです。とんとん拍子にこうやっておかげを受けたというのとは値打ちが違う。ね。だから御礼を申し上げねばらない事じゃないかという風にです、そういう中にあってもお礼の言えれる手立てが合楽理念には説かれるわけです。今日その梅山さんの家内がまた頂いておるとが、そういう、まあ、親戚との色々の問題やら、とにかく、良方端で受けてさえ行きゃよかと腹を決めておってもいよいよの時になるとそれが受けられない。
 だから昨日は先生が出てきてから今日は、とうとう夫婦喧嘩しました。どうしてやち、家内がこうこう言うからというな事がかなりあった。ね。良方端でいきゃ夫婦喧嘩は何もせんでよかっちゃけれども、そういう事になった。そしたらね神様からねはっさくと頂いた。おみかんにはっさくというおみかんがありましょうが。ね。もうみかんといや合楽の信心と、あれを二つに切ると菊の花がこう出てくる。合楽のシンボルのように言われる。私はよかご理解かと思いよった。はっさくという字を私は知らんからどげな字を書いちゃったのというたらこう、漢字ではっさくと書いたらね、はっさくとは八の字にね、逆という事が書いてある。逆さまという、これにしんにょうをつけたら、逆さまちいう事。例えば合楽でご信心を頂いてそれこそ、心に菊の花を頂かせてもらえることだけに、専念しておるのですよね。ここで修行をしておる人たちは、もう関わらずです、ね、昔にいじめられとったけんで、いじめかえさなといったようなことでもなかったろうけれども、考え方が間違うておった。そこでなら、夫婦が言い争いをするような事になった。娘の一年生の栄子ですら、ちゃんと聞き分けて、ね、いうなら耳納山を超えたというのにおまえ達夫婦はどうした事かと、こんなことで言い争いをして、それは広がりに広がる反対になるぞという事です。逆という事です。これも神様の叡智といわれにゃおられませんでしょう。ね。昨日は梅の実会で二十名の方達が一人一人発表しましたが、もう本当に私は興奮するくらいに素晴らしい話を皆が発表しました。話が上手になっておるのじゃなくて確かに、あの一月間の夏期信行をとおってからですから、それはもう素晴らしい話でした。もう誰にでも聞いて頂きたいという話でした。
 一番最後に会長さんが発表しました、この人ちょっと信心がぐずぐずしておる。そして皆さんの話を聞いて、もう感心しましたというて、話の初めに言いましたからもう、マルマルさんあんたもそこまででよかばいと私は言いました。ね。信心が今出来ておらんから。皆さんの話を今聞いて素晴らしかったという事が分かったらそれでいいて。私は今日は昨日は言うたことでした。中に、安武さんが発表されておりましたが、朝参りをさせてもらう、昼の夏期信行にお参りをさせてもらうた一月間、まあ無事に通らせて頂いた。ところがどういうものか、皆さんのような感激が一つも湧いてこない。本当いうならあの、夏期信行に出て、一生懸命の御祈念をする、朝参りをする主人と二人で夫婦揃うて朝参りが出来るのだから本当に、そのいわば感動が湧かなければならんのに、感動が湧かん。そして分からせtえ頂いたことは、私共夫婦の信心がもうその事が当然のこと当たり前のこととして、朝参りが出来た、夏期信行が出来たと行っております。その向こうにその事が分かったら、今までかつて感じた事のなかったそこから湧いてくる喜びが湧いてきたというのですよ。素晴らしいでしょうが。合楽の信者として当然の事なんだと。朝参りも。そして、いうなら、年に一回の夏期信行を貫きとうさせて頂いて、はあ、皆さんが有難い勿体無いでいいよなさる人たちが自分には感動が湧かん。どういうことだろう。それは当たり前のこととして、この信心が出来たからだと分かったら今まで頂いたことのない喜びがそこから湧いてきたというのです。そういう信心が身に付いていかなければいけませんよね。はあ、若い梅の実会といえば若い嫁さんたちばっかりの会です。普通ならば姑親の悪口ばっかりを言いたいような人達ばっかりなのです。それが、とてもとても、もうあんただんがこのまま育っていくなら、合楽萬万歳というて最後には申しましたけれども、皆さんが合楽の値打ちと言うのは御理解です。生きた御理解です。天地に繋がっておるのです。ね。だから、皆さんがその気になって頂いて実験実証させて頂いたらお徳を受けるです。それがいうならば合楽のごひれいの元になっておると思います。腹たちを全てゆるしてなすの花、ということは腹たちと言うことではない、色んな難儀、色んな問題、いうなら、ね、おかげの受けられない心の状態という事になりましょうかね、腹たちという心がおかげの頂けない心なら、それと同じように、不平不足を言う、ね、恨むとか妬むとかそういう様々なおかげの受けられないそういう心を全て流して許していうならばはっさくのおかげ。それが一つ間違えると広がるはずが反対に逆さまになってしまうようになる。昨日の御理解でありますというなら、なすの花が咲きつづける。これは決して仇花ではない。もう必ず千に一つの無駄のない程しのものになるものだと言うことをね分からせて頂いて、合楽の値打ちといや御理解。その御理解を耳に収めて、その峠山を越えさせてもらう。栄子さんに学ばにゃいかんと思います。聞いちゃおる。耳は肥えた。だけで、それを実験もしなければ実証をもしなければです、神様にどんな素晴らしい教えを頂いてもそれを流してしまうことになる。流してしまうたら、しんにょうをこれにつけたら逆さになってしまうということなんです。
                                     どうぞ